フランシスコ・ザビエルはイエズス会から派遣された宣教師で、イエズス会の創設者7人のうちのひとり。
そのイエズス会の初代総長がイグナチオ・デ・ロヨラ。

私がイグナチオ・デ・ロヨラの名前を知ったのは大学に入学したときで、今から40年前のこと。
大学の隣に教会があって、名前が聖イグナチオ教会。
なんか不思議な名前だなというのがそのときの率直な感想。その聖イグナチオがイエズス会を創設し、初代総長だということはそのときはまったく知らなかった。

イエズス会のことは、高山右近や細川ガラシャ夫人についての本を読むと必ず登場してくる。その初代総長のイグナチオ・デ・ロヨラにも少なからず関心はあったが詳しいことはわからずにいた。
そして今回、彼の著書を初めて読んだ。本の名前は「霊操」。

イグナチオ・デ・ロヨラの生涯は、たしかに並外れただったかもしれない。しかし、どうして、ひとの考えも及ばないほどの強いキリストの戦士になったのか。その秘密を探ろうとロヨラの精神とも言われる「霊操」のページをめくってみたが、どうにもよくわからない。
読み終えてしばらく経つが、未だにわからない部分も多い。

文中、頻繁に「われわれの貴婦人」という言葉が出てくる。おそらく聖母マリアのことだと思うが、我々プロテスタントにとっては単なるイエス様の母との認識でしかない。カトリックでは聖母マリアを特別な人と考えているようだ。とにかく随所に「われわれの貴婦人」という言葉が出てくる。

長い間、この本と格闘していたような気がする。ルターの「キリスト者の自由」は短いこともあってすぐに読み終えたが、この「霊操」はさっぱり読み進めないでいた。
訳者の解説文が長く、禅と比較しての解説はそもそも禅のことに詳しくない私には有用な解説ではない。そこで、本の半分ほど読み進めてからは解説文は読まないことにした。すると、それまでの停滞は姿を消し、一気に読み進めることが出来た。

でも、この本は読んでどうなるというものではなかった。霊操(霊的エクササイズ)の実践書であり、霊操者と霊操を受けるものとの間の細かな点まで考え抜かれた、相対峙しながらキリストへの信仰と自身の霊的成長を堅固にするための方法論を書いたもののようだ。

上智大学のサイトにイエズス会と「霊操」のことが詳しく書いてある。

 現在もイエズス会員は司祭に叙階される前と後に2回、30日間の黙想を行っていますが、この黙想の教本が『霊操』です。この霊操はイエズス会の精神的な基盤となり、学校経営の教育方針ともなっているものです。霊操の精神修行に入る者は、まず第1週目は己の生活方針を認識する「原理と基礎」の黙想を行い、ついで「罪」についていろいろな考察や反省がなされます。

 この黙想が終わると第2週目に入りますが、ここでは「キリストの国」についての黙想です。

 霊操者はキリストを見つめ、主は神の国のため、共に奉仕するように、また世にあふれている悪と戦うように呼びかけます。このキリストの呼びかけを霊操者は拒否することはできません。しかしこの戦いは空しい名誉とか、物質的な利益とか、世の中で高い社会的な地位を狙うための競争ではありえません。

 それは貧しいキリストと共に貧しくなり、世に見捨てられたキリストと共にさげすまれる「十字架の道」を選ぶことを意味しているのです。
かなり厳しいことを書いている。
そして、この本を読んでいていちばん心に残った文章。
「病気よりも健康を、貧しさよりは富を、不名誉よりは名誉を、短命よりも長生きなどを好むことなく、・・・・・・」
私自身は、まだ若いころ洗礼を受け、このような考えが少なからずあったような気がする。しかし、仕事に追われ、年を重ねるごとにそのような気持は薄れることはあれ、思い出すことさえなくなってしまった。
自分とは遠い世界の感じもするが、逆にこのような心境に戻したいという気持も強い。

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