朝、まだ眠りのなか、電話のベルで起こされた。時計の針はは午前5時ちょっと過ぎを指している。
母の入院している病院からの電話だった。

昨日、午後3時頃に病院へ行き、リハビリまで車椅子で連れて行った。ひと通りリハビリが終わり、そのあと病院の外へ気分転換のつもりで車椅子に乗せたまま出てみた。どうもそれが間違いだったようだ。玄関近くでタクシーが客待ちをしている。それを見た母は、急に家に帰ると言い出した。病室に戻っても「帰る」を繰り返す。
最後は主治医に説得をしてもらったがだめだった。主治医からは外泊許可が出た。だが、外泊許可が出ても家に連れ帰る準備ができていない。仕方なく睡眠薬で気分を落ち着かせようということになった。
やっと寝ついたのは午後8時。寝たのを確認して私も家に帰った。

この顛末が今朝の緊急事態に繋がってしまった。
午前7時、病院に着いた。病院はまだひっそりとしている。
病室ではバンドを巻かれて母がベッドにしょんぼりと座っていた。
すぐに夜勤の看護師がやってきてバンドをはずしてくれた。母もやっと落ち着いてきた。
夜中にベッドから降り、周りを歩いているとき転倒したらしい。

明後日に通院して検査を受けるという条件で今日退院することに決まった。
だが、今日は私の受診日、午後4時の診察が終わらないと退院できない。困ったことに、母はそれまで待てないと言う。
とにかくなだめてベッドに寝かしつけた。あとで必ず迎えに来るからと言い聞かせてもなかなか納得しない。
かわいそうだが、いつまでもわがままを聞いていてもどうしようもない。とにかく家に帰り、昼食を食べて大きなバッグを持ってまた病院へ。

バッグにパジャマ、タオル、その他入院時に持参したものを入れ、着替えを済ませて車椅子に載せた。やっと帰れると喜んでいる。そのまま私の診察室の前で待ってもらうことにした。

さて、私の診察は?
HbA1c(ヘモグロビンエーワンシー)は6.2。また記録を更新した。
状態は良くなっているが、やはり低血糖が問題だと言う。
少しHbA1cの数値は悪くなっても低血糖を無くすようにしようということで、超持効型インスリンを1単位減らすことになった。

血液採取などを済ませ、会計で支払い。支払額は12,370円。母の入院費の約二分の一。母の入院費が安いと言うべきなのだろう。ちょうど一週間の入院で25,830円の支払い。

このあと母のケアマネージャーと我孫子市の社会保健士、それと病院の相談員とで退院後の打ち合わせを行い、午後6時に晴れて退院。
家に帰った母は夕食を済ませ、すぐに眠りに着いた。やっと落ち着いて寝ることができるのだろうか。

母の入院

タオル、バスタオル、スリッパ、歯ブラシ、コップ、それと・・・・・・。100円ショップでリストアップされた項目をひとつひとつつぶして袋一杯に。
家に帰って、今度はパジャマ、下着、オムツなどを別の袋に入れ、それを自転車のカゴに無理矢理押し込んだ。
気分はちょっと重いが病院へ向かった。

病室へ入ると母がベッドの手すりにつかまってなにかよちよちと不思議な動きの歩き方をしている。でも起き上がっている、元気になったのか?
「何をしているの?」と聞くと、掃除をしているのだと言う。
ごみなどない綺麗な病室の床を見回し、カーテンを少したぐり寄せては点検。
認知症が一気に悪化してしまったのだろうか。

ナースステーションで母の状態を聞いてみた。
環境が変わったとき認知症が進んでしまうことがあると担当の看護師さんが説明してくれた。
昨日までは、なんでこんなになってしまったのだろうと自分の情けなさを嘆いていた母が、今日はわけがわからなくなってしまっている。

ベッドに座らせて少し落ち着かせてみたが、どことなくぼーっとしている。
「私が誰だかわかる?」
少し考えていたが答えがない。目はうつろで表情が死んだように頼りない。
もう一度、そしてもう一度、同じことを聞いてみた。
やっと私と分かったのか、わたしの名前が母の口から出た。
急になにか悲しくなって、涙が出そうになった。

まだ熱があって、点滴中に嫌がって針を抜いてしまうのだと、病室に入ってきた看護師さんが説明してくれた。
「点滴をきちんとやらないと良くならないよ」と私が言うと、「わかった」と素直に返事をする。

受付で入院保証書を提出して病室に戻った。窓の外を見つめてまだぼーっとしている。
「じゃ、そろそろ帰ってもいい」と言うと、「どっちでもいいよ」とそっけない。

しばらく無言のあと、「それじゃ帰るからね」と、ほんとうに帰ろうとすると、「私をひとりおいていくの」と言い出した。
また明日来るからとなだめると、今度はベッドに寝かせてくれと言い出す。
熱で節々が痛いのか、ちょっと動かすだけで「痛い痛い」を連発する。大げさに言っているのではないかとさえ思えてくる。

やっとのことでベッドに横になった。だが、気分が良くないのか不平の言葉を口にしている。
氷枕をきちんと頭の下に入れ、電動スイッチを調節して頭を上げたり、足の部分をあげたりしていろいろやってみたがまだ不満があるらしい。
いったん平らに戻して頭の部分を少し上げたらやっとOKが出た。

夜勤の看護師さんが入ってきて、熱と血圧を測りだした。
「可愛い看護婦さんね」と愛想がいい。
まだ熱が高いと、その可愛い看護婦さんがつぶやいて、てきぱきと器具を片づけて病室を出て行った。

気分が良くなって気持も落ち着いたのか、ぼーっとした雰囲気は消え言葉もはっきりしてきた。
しばらく話をして、帰ることを告げると今度は快く承諾してくれた。

病院の玄関から出ると外はもう真っ暗。寂しさがひとりでに沸き上がってきた。なぜか、涙が出てきた。
あんなにしっかり者だったひとが、今日はまるで別人のようだった。

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