キリスト者の自由

一ヶ月以上前に買い求めた「霊操」と「キリスト者の自由」のうち、やっと「キリスト者の自由」を読み終えた。
最初は、イグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」から読んでみたが、ちょっと私には難解すぎた。
で、途中まで読んで、ルターの「キリスト者の自由」に読み替えたが、こちらの方も少し難解な部分が多い。
原文がそうなっているのか、それとも訳文がそうなっているのか分からないが、ひとつの文章が長く、語彙も理解しにくいので一気に読み進めることができなかった。

「キリスト者の自由について」はわずか50ページ足らずの小論文になっているが、第一から第三十までじゅんじゅんと論を進める格好になっている。
まず、第一にルターはふたつの命題をかかげている。

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。
このふたつの命題をパウロの手紙によって確認し、最後の第三十で結論づけている。
以上の全体から次の結論が生ずる。曰く、キリスト教的な人間は自分自身においてではなくキリストと彼の隣人とにおいて、すなわちキリストにおいては信仰を通して、隣人においては愛を通して生活する。彼は信仰によって、高く己れを超えて神へと昇り、神から愛によって再び己れの下に降り、しかも常に神と神的な愛とのうちにとどまる。キリストがヨハネ伝福音書第一章に、「あなたがたは、天が開けて天使たちが人の子の上に昇り降りするのを見るであろう」と言われたのはそれである(一章五十一)。
見よ、これが、心をあらゆる罪と律法と戒めとから自由ならしめるところの、真の霊的なキリスト教的な自由であり、あたかも天が高く地を超えているように、高くあらゆる他の自由にまさっている自由なのである。神よ、われわれをしてこの自由を正しく理解し且つ保つことをえさせて下さい。アーメン。
以上の文章で「キリスト者の自由」は終わっている。
少し文章が難解だが、内容は現代の我々にとっては特別なものとも感じないし、とくに異を唱えるものでもない。
しかし、ルターの時代では、このような考えは画期的だったに違いない。
ルターによって初めてドイツ語聖書が翻訳されたが、それまでは一般のキリスト教徒にとって、自ら聖書を読むことはあり得ないことだった。教会で読まれる聖書よりは教義の方が優先されていたはずの時代だ。そして、翻訳されたドイツ語聖書はグーテンベルクの印刷機によって一般の人が聖書を読むことを可能にした。

でも、こうして現代、日本でもその気になれば聖書を読むことはできるけれども、いったいどのくらいの人が聖書を読んでいるのだろうか。
日本では、現在でもキリスト教徒は全人口の1パーセントにも満たない。隣の韓国では4人に一人がキリスト教徒なのにだ。

じつは、私にとって、この「キリスト者の自由」よりは、その次の「聖書への序言」のほうが得るところが多かった。まだ、読んでいる最中なので、詳しいことはまた別のところで書こうと思う。

しかし、あらためてこのような本を手にとってみると、自分自身の信仰が試されているような、おまえは間違っている、と言われているようで、逆に元気づけられるから不思議だ。

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