パウロの混乱

昨日のNHK教育テレビで「パウロの手紙を読む」を見た。
喜怒哀楽の副題が付いたテーマで、パウロのコリント後書が使われている。
講師の牧師が参考として、太宰治の「パウロの混乱」という文章を読みあげた。
この文章は以前、私も読んだことがあるが、太宰治の感性が普通ではないな、とそのとき強く感じたのを今でもはっきりと覚えている。
太宰治が聖書を読み込んでいたらしいことは、この小説を読むとはっきりと分かってくる。
退廃的な人生と思われている一方で、深くそれに向き合っていたことが、かえって虚しさ訴えているようだ。

そうして、おしまいには、群集に、ごめんなさい、ごめんなさいと、あやまっている。まるで、滅茶苦茶である。このコリント後書は、神学者たちにとって、最も難解なものとせられている様であるが、私たちには、何だか、一ばんよくわかるような気がする。高揚と卑屈の、あの美しい混乱である。他の本(ほん)で読んだのだが、パウロは、当時のキリスト党から、ひどい個人攻撃を受けたそうである。
パウロのこの手紙を「高揚と卑屈の、あの美しい混乱」とまで書いている。

私も常に思っているのだが、パウロほど不思議な使徒はいないのではないか。
キリスト教徒を迫害するバリバリのユダヤ教徒であり、ついにはダマスコまでキリスト教徒を捕らえるため追いかけて行く。
そして、ダマスコへの途中、まばゆい光の中にイエスキリストの声を聞く。一瞬にして目が見えなくなり、3日後に「目から鱗のようなもの」が落ちて、また目が見えるようになる。
そして、すぐに洗礼を受け、一転して福音を伝える伝道者になる。いったい何があったのだろうか。
パウロの回心、として有名な箇所だが、決定的なことが起きたとしか考えられない。

パウロほど後世の信徒に影響を与えている使徒はいないだろう。私ももちろん強く影響を受けたひとりだ。

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